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| 『妖怪事典』 編・著:村上健司 発行所:毎日新聞社 価格:3,800円+税 |
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森の奥から採集してきた昆虫をピンセットで摘む。 細心の注意を払いつつ、標本箱に虫ピンでとめる。 やがて彼の背後には、標本箱が積み上げられていく。 幾つも、幾つも・・・。 妖怪の名前を集めることは、子供の頃に夢中になった昆虫採集に似ているかもしれない。 だが、あやかし達が棲息し得る闇の深い空間は、今や殆ど失われ、余程の能力か運がなければ、フィールドで珍しい妖怪名彙の採集など出来はしない。聞き取り調査の技術を持たぬ私のような好事家が、希少種の妖怪を探そうとするならば、書物の森にわけ入るしかないだろう。そこには、埃まみれの伝説集や民俗誌の中、かつて採集・記録されたまま忘れられてしまった怪しきものどもが眠っている。 村上健司の『妖怪事典』は、そんな今まであまり顧みられなかったマイナーな妖怪達の収集に正面から取り組んだ大変な労作だ。『民間伝承』、『旅と伝説』といった民俗学黎明期の雑誌や各地の伝説集、江戸時代の怪談本や随筆等を渉猟した彼は、先行する類書、千葉幹夫の『全国妖怪事典』を遥かに越える数の語彙を収集している。これはまさに力作である。その作業にともなう労苦と楽しみは大きなものだっただろう。 まずは在野の研究者の手によって、このように充実した事典が世に問われたことを喜びたい。 誰も知らないに違いない、と私が秘かに悦に入っていた妖怪達も本書には多数収録されており、駆け出しの妖怪愛好家としては、少なからず悔しい思いをさせられたことも告白しておこう。 一例をあげるならば「ヒル」と「ヨル」だ(1)。 「ヒル」は夜間暗の中を仄かに明るくなって飛び、「ヨル」は昼間の明るみの中を黒雲の様にかげって飛ぶ。両者とも高知県幡多郡において採集され、雑誌『民間伝承』に報告されているモノだ。これらは極めてマイナーかつローカルな妖怪だが、先人達が抱いた天文学的綺想を伝える興味深いあやかしだ。 また、日野巌、佐藤清明らの妖怪語彙集にあらためて光をあてたことも、本書の功績として強調しておきたい。彼らが収集した語彙は、柳田國男の論文に引用されているにも関わらず、その著作は民俗学者の記憶の外にあり、今まであまり評価されて来なかったようだ。本書を機に、彼らの残した仕事が再評価されることを願わずにはいられない。 さて、細かいミスは別にして、本書にも限界はある。 私が知っているだけでも相当数の語彙が漏れている。各地の伝説集や市町村史の頁の中で、無数のあやかし達が息を潜め日の目を見る時を待っているはずだ。 事実、著者によれば、既に把握している数百の語彙が紙幅の都合で収録出来ておらず、それらを収録したさらに総合的な妖怪事典の企画が既に進行しているという。その刊行を期待して待ちたい(2)。 さて、ここであえて苦言をひとつ。 「事典とは、昆虫の標本箱と同様に棺なのではないか」と。 いや、怪異関連語彙の収集は、怪異に関する十分な集成資料さえ存在しない現状の下では、大変有意義な作業ではあるのだ。 だが、五十音順に羅列された妖怪の名前とは、本来の生態系から切り離された昆虫の屍と同じく、かつて語られた文脈や歴史的・地理的環境などの様々な事象との有機的関連を失っている。本書は一次資料検索の役には立っても、そのままでは研究素材にはなり得ない。これは名彙収集という方法と、事典という媒体が不可避に抱える限界だ。 これからの妖怪研究をさらに面白く充実したものにするためには、語彙収集や事典の作成と同様に、怪異に関する情報をより良好な状態で保存し得る記録方法を確立し、アーカイブを整備していく必要があると考える。これはおそらく村上氏も同意見だろう。 名彙と資料の収集という正攻法によって、妖怪研究の基礎がために着手した村上健司氏の今後の活躍に注目したい。 |
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| (1)中平 1938による。 (2)私信による。 参考文献 中平悦麿 1938 「ヒルとヨル」『民間伝承』第四巻第二號 p.21 この文章は『幻想文学』誌58号の「幻想ブックレビュー」に投稿した原稿のフルバージョン。最初、規定の文字数を間違えて、2倍の分量で書いてしまったのですね(苦笑)。無理やり推敲して、随分スリムになったものが、掲載されたバージョンです。 (2000/05/15脱稿) (2000.11.15加筆訂正) もどる |
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